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顕正会は妙信講に学べ(1)

顕正会の今の指導方針は一念信解にあります。顕正会はその前身である妙信講時代には教学の大事を教えていました。「此の文には日蓮が大事な法門ともかきて候ぞ。見ほとかせ給へ、意得(こころえ)させ給ふべし。一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。あひかまえて、あひかまえて、信心つよく候ふて三仏の守護をかうむらせ給ふべし。行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法あるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(諸法実相抄・平成新編御書667・668ページ)この手紙には日蓮が大事の法門を書き記しておいた。よく見て読んで理解するようにしなさい。そして心肝に染めなさい。世界第一の法門を信じるようにしなさい。相構えて、相構えて、信心強くして釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏の三仏の守護を身につけていきなさい。行学の二道を励んでいきなさい、行学が絶えてしまえば仏法は無くなるのである。我も行い、人にも教えるのです。行学は信心より起こるのです。力あるものは一文・一句であっても人に語っていきましょう。今の顕正会は大聖人様のこの教えに背いているのである。「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法あるべからず」その通りですね。大聖人の仏法を学ぶことを止めてしまっては、この仏法は無くなってしまいますよね。顕正会はこの教えに背いてまで何を弘めようとしているのでしょうか。日蓮大聖人様の教えを弘めることが本当の意味での広宣流布ではないのですか。御書講義を捨てて、教学部を捨てて、どのように大聖人様の教えを学べというのでしょうか。顕正会員の皆様、今からでも遅くありません。日蓮正宗で大聖人様の仏法を学ぶべきですよ。

顕正会時代の思い出

私が顕正会時代に強烈に覚えているのが小山での顕正新聞配布です。私の友人が小山市(栃木県)の出身であり、友人の身内も折伏したいとのことから実現したものである。もちろん、私が車出しである。ある時、友人の携帯に電話が入り、学会員と話し合うこととなった。そう、友人の身内は学会員だったのだ。場所は国道50号に面したファミレスである。なんと、学会側は折伏する気満々で臨んでおり、過去の顕正会の事件簿や御書もあった。対するこちらは、顕正新聞のみ。勝敗は明らかである。こちら側は支隊長だけを頼りとしていた。ところが支隊長は相手の話を遮るばかりで顕正会の正しさを語ろうとはしない。いや、語れなかったのだろう。教学が無かったからだ。そんなこんなで、2時間が経過。話し合いの終わりに、ふと学会員がこぼした言葉が今でも忘れられない。「御本尊は私たちの心の中にいるのです」えっ!!と思った。ちょっと待て、と思った時にはもう皆さんファミレスから出ていた。その時の私の疑問。”だったら、学会の御本尊下附の意味って何なの?”心の中に御本尊がいるのなら、御本尊下附の意味はないはずです。これは、日蓮仏法を知るものなら法門に詳しくなくとも感じる疑問だと思うのです。それは同時に今の顕正会にも言えてしまいます。”遥拝勤行を勧めていながらどうして御本尊下附が必要なの?”顕正会で言う遥拝勤行とは、大石寺にある戒壇の大御本尊様に向かって勤行するというもの。であれば、御本尊は必要ないのでは。なのに、顕正会は御本尊下附の条件を引き下げたのである。この矛盾はどうして起こるのだろうか。

今年最後の支部総登山

私の所属する報恩坊の今年最後の支部総登山が10月9日にありました。私の場合、仕事場の勤務の都合上、土日休みがないためなかなか参加が出来ないのですが、今回は今年最後の支部総登山とのことだったので、有給休暇を取らせてもらい参加しました。前泊での参加でしたが、ここのところの残業もあってか、1・2時間の残業覚悟していたのだが、この日に限って、仕事場の仲間が私の仕事を手伝ってくれたこともあってか、なんと、定時退社することが出来たのだ。おかげで、大石寺着山時間が大幅に早くなったのだ。さて、今回の支部総登山、いつもと違い広布指導会(だったっけ?)があったためそちらへの参加が優先されました。陰徳陽報(いんとくようほう)についての指導がありました。”陰徳あれば陽報あり”人知れず徳を積む者には、必ずだれの目にもわかるような良い報いがある。との意味だそうです。日蓮大聖人の仏法での陰徳は折伏にあります。しかし、陰徳をしても、それに驕ったり、慢心を抱くようでは折角の報いも無くなってしまいます。私は顕正会の浅井会長に対してのことだと思いました。正本堂問題でどれだけ(浅井会長が)正しいことをしたとしても、そのことで、慢心したがゆえに顕正会(当時妙信講)は講中解散処分にあってしまい、大聖人様に違背する団体になってしまったこと。この教えにピッタリ当てはまると思ったのです。指導はは四条金吾殿とその主君の話で結びを迎えました。四条金吾殿は知っての通り、有力な在家信徒でした。ところがその主君は大聖人様の信仰に反対していたため、四条殿が大聖人様の信仰をしていると知るや、迫害し、所領を没収したそうです。それでも信仰を止めなかった四条殿。ある日、主君が病気になり、四条殿は治療を任されることになりました。四条殿は武士としでも、医師としても長けていたのです。四条殿は、主君の身を助けたという功績から、没収された所領の返還はもちろんのこと、さらなる所領を得ることが出来たそうです。どんなに、大聖人様の信仰が困難な状況においても、信仰を続けることにより必ず功徳を積むことが出来ることをしっかり学ばせていただきました。有難いことです。

顕正会員に問う(1)

顕正会9月度総幹部会の浅井昭衛氏の講演の様子です。顕正会の今法戦(9月・10月・11月)の折伏誓願は26000人だそうです。9月の総幹部会までの時点で誓願の50パーセントを超える折伏(勧誘)が成されているようです。しかし、末端の現実はどうだろうか。私は先日、床屋に行ってきました。そこは、私が顕正会男子部でお世話になった班長さんの妻の経営しているところです。私が日蓮正宗にお世話になってから2回目に訪れたのですが、やはり、予想通りの言葉を私は耳にしました。「広宣流布のその日まで少し距離を置きたい」と。どういう意味でしょうか。日蓮正宗という邪教に入った(顕正会目線で言っています)人を目の前にして”折伏をしない”と宣言しているように聞こえませんか。顕正会での折伏対象は、創価学会員および宗教を知らないもの、自ら顕正会への入信を願い出るものに限られています。顕正会員は浅井昭衛氏を含めて本当に広宣流布する気があるのでしょうか。いや、顕正会員は本当の広宣流布など出来ないのです。法を知らないからです。顕正会の末端のもののほとんどが法を知らないのです。私の顕正会在籍時の隊長さんもそうでした。ですから、浅井昭衛氏の「宗門には護法の心がない」との指導にはあきれるのです。護法とは字のごとく”法を護る”ことです。”法を護る”ためには法を学ばねばなりません。残念ながら、顕正会では法は学べません。御書が無ければ、御書講義もないからです。本当の広宣流布は、全人類をを日蓮大聖人に縁させるだけではいけません。顕正会員の皆様、どう思いますか。

三大秘法抄の意味

三大秘法稟承事(三大秘法抄)とは、一期弘法付嘱書と共に顕正会員ならいつでも言えるようにと指示されたぐらい重要な書です。このようなものですね。戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか。時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して踏み給ふべき戒壇なり(平成新編御書・1595ページ、基礎教学書・295ページ)戒壇とは、王法が仏法に冥じ仏法が王法に合して、王及び臣下が一同に本門の三秘密の法を持って有徳王と覚徳比丘の其の昔の話が末法濁悪の未来に再現されたときに、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土によく似た最勝の地を探し求めて、そこに戒壇を建立すべきことか。(広宣流布の)その時を待つべきのみ。事の戒法とはこのことである。三国(インド・中国・日本)並びに全世界の人間の懺悔滅罪の戒法だけではなく、大梵天王・帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇である。顕正会の基礎教学書に見てみよう。事の戒壇建立の”時”・”手続”・”場所”についての説明です。始めに”時”について「王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法(基礎教学書では三大秘密の法)を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」としています。「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」とは、国家が宗教の正邪にめざめ、日蓮大聖人の仏法を国家安泰の唯一の正法であると認識決裁し、これを尊祟守護することである。それは、具体的にはどのような姿相(しそう)になるのかといえば、次文に「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」とある。すなわち日本国の国主たる天皇も、大臣も、全国民も、一同に本門戒壇の大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉り、この大御本尊を守護し奉るためには、有徳王・覚徳比丘の故事に示されるがごとく、身命を惜しまぬ大護法心が日本国にみなぎった時・・と仰せられる。大聖人は末法濁悪の未来に、このような国家状況が必ず現出することを、ここに断言しておられるのである。(以上基礎教学書・295,296ページ)私がこの文章を見て、今の顕正会はこの大聖人の断言されたことに対して無視した指導がなされていると確信したのである。もし、浅井昭衛氏(浅井先生)が本当に大聖人様の教えのすべてを信じているのならばどうして国民の過半数たる6000万人・・・なんて指導になるのか。信じているのなら数値目標そのものが不要なのではないか。私たちが大聖人様仰せの通りにしていれば、必ずこのような国家状況になるであろうというのがこの文には記されているのではないか。私はそのように感じたのである。今回はこのぐらいにして残りは次回にします。