顕正会折伏理論書(2)
今回は基礎教学書との違いに見ていくことにします。
基礎教学書270ページより、日興遺誡置文の一節の説明文です。
一、衆義たりと雖も仏法に相違あらば、貫首之を摧くべき事
たとえ大衆の意見であっても、それが仏法に相違する時は、貫首はこれを摧くべきであると仰せられている。
同じ説明を折伏理論書146ページではこう説明する。
たとえ大勢の意見であっても、それが仏法に相違する時は、貫首はそれを摧くべきであると仰せられている。
折伏理論書の大勢の意見とは”多くの人”と解釈するとして、問題は基礎教学書で述べている”大衆”の読み方である。
この読み方二つが存在するのだが、どちらを取るかでその意味が大きく違ってくるのである。
浅井さんは知っているのかな?
私が愛用する漢和辞典より(三省堂・新明解漢和辞典より)
1、「たいしゅう」と読む場合・・・一般民衆・群衆つまり、大勢の一般の人
2、「だいしゅ」と読む場合 ・・・(仏教用語にて)大勢の僧徒つまり、僧侶の方
果たして正解はどちらか。
同じ日興遺誡置文に次の条文がある。
一、衣の墨、黒くすべからざる事
この衣とは簡単に言えば僧侶の制服のことである。
つまり、僧侶についての一文である。
このことから、ここでの”大衆”の読み方は「だいしゅ」が正解なのである。
つまり、日興遺誡置文とは大衆の代表である御法主上人とその他の大衆たちとの守るべき決まりなのである。
私や浅井昭衛さんのような在家信者には関係がないのである。(もちろん、見習って行動するには問題はない)
結論から言えば、御法主上人に対して在家信者が諫暁を行うなど到底考えられない事態ということ。
池田大作・浅井昭衛という2人の方に”魔”がその身に入ったからこそ出来たのである。
”魔”は正法から離れさせる働きをするわけだから当然このようなこともあり得るのである。
その証拠に、顕正教学は年々薄っぺらくなっているではないか。
顕正会員が一人でも多くこの事に気が付いて欲しいものである。
基礎教学書270ページより、日興遺誡置文の一節の説明文です。
一、衆義たりと雖も仏法に相違あらば、貫首之を摧くべき事
たとえ大衆の意見であっても、それが仏法に相違する時は、貫首はこれを摧くべきであると仰せられている。
同じ説明を折伏理論書146ページではこう説明する。
たとえ大勢の意見であっても、それが仏法に相違する時は、貫首はそれを摧くべきであると仰せられている。
折伏理論書の大勢の意見とは”多くの人”と解釈するとして、問題は基礎教学書で述べている”大衆”の読み方である。
この読み方二つが存在するのだが、どちらを取るかでその意味が大きく違ってくるのである。
浅井さんは知っているのかな?
私が愛用する漢和辞典より(三省堂・新明解漢和辞典より)
1、「たいしゅう」と読む場合・・・一般民衆・群衆つまり、大勢の一般の人
2、「だいしゅ」と読む場合 ・・・(仏教用語にて)大勢の僧徒つまり、僧侶の方
果たして正解はどちらか。
同じ日興遺誡置文に次の条文がある。
一、衣の墨、黒くすべからざる事
この衣とは簡単に言えば僧侶の制服のことである。
つまり、僧侶についての一文である。
このことから、ここでの”大衆”の読み方は「だいしゅ」が正解なのである。
つまり、日興遺誡置文とは大衆の代表である御法主上人とその他の大衆たちとの守るべき決まりなのである。
私や浅井昭衛さんのような在家信者には関係がないのである。(もちろん、見習って行動するには問題はない)
結論から言えば、御法主上人に対して在家信者が諫暁を行うなど到底考えられない事態ということ。
池田大作・浅井昭衛という2人の方に”魔”がその身に入ったからこそ出来たのである。
”魔”は正法から離れさせる働きをするわけだから当然このようなこともあり得るのである。
その証拠に、顕正教学は年々薄っぺらくなっているではないか。
顕正会員が一人でも多くこの事に気が付いて欲しいものである。
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