新池御書より(1)
皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよはく、僧をも恭敬(くきょう)せず、供養もなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始めより終はりまで弥信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん。譬へば鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り歩みをはこびて、今一日に成りて歩みをさしをきては、何として都の月をば詠め(ながめ)候べき。何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし。
(平成新編御書・1457ページ)
人は皆この経を始めたころは信心があるように見えるけれども、中ごろになると信心も弱く、僧侶をも敬わず、供養もせず、慢心を起こして邪悪な考えを持つようになる。これは恐るべきことである。始めから終わりまでいよいよ信心をいたすべきである。そうしなければ後悔することになるであろう。例えば鎌倉から京都までは十二日の道のりである。なのに、十一日かけて歩いて、あと一日歩くのを止めてしまっては、どうやって、都の月を眺めることが出来ようか。何としても、この経を知っている僧侶に近づいて仏法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべきである。
顕正会は正本堂問題を持ち出したがために、正法への歩みを止めてしまっているように見える。
この御文の通りになっているようにみえるのである。
人は他人の悪いところを見るとそれに対して信用出来なくなるものである。
ある意味でそれは当然のことである。
でも、それが大聖人様の仏法の教えから遠ざかる原因であるならば話は別である。
顕正会では儀礼室というものがあり、そこでは、在家のみで葬儀をしているという。
創価学会の友人葬と同じ理屈である。
共に共通しているのは宗門僧侶を敬わず、供養もせず、教祖が慢心を起こして邪悪な考えを持つようになったことである。
これが、大聖人様に忠誠を尽くしている団体には到底思えないのである。
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