顕正会が正しいと思えばこその疑問
顕正会が基礎教学書を発刊してもうすぐ一年になります。
この基礎教学書発刊当時はまだ顕正会にいたころであり、浅井昭衛氏のこの書の出来によっては引続き顕正会で活動しようと思っていたのです。
ところがである。
どういうわけか、折伏理論書の「宗教批判の原理」の部分がそっくり無くなっていたのだ。
浅井昭衛氏は宗教批判の原理の大事を次のように述べている。
”薬を選ぶ基準は「好き嫌い」ではなく「効くか効かぬか」であるべきである。宗教もまた然り、いずれの宗教が成仏に至る正法であるか、あるいは不幸をもたらす邪法であるかを、よくよく見極め取捨選択しなければならない。 しかし、一般世間においては、相当な智者も、こと宗教に関しては全く無智で、ただ曖昧な常識や好悪の感情だけで判断しているのが実状である。それというのも宗教の正邪が個人の幸・不幸、更には国家の興亡盛衰を決する根本であることをいまだ知らず、また宗教批判の原理を弁えぬゆえである。 宗教批判の原理とは何か。一言にして言えば、三証と五綱判である。三証とは道理・文証・現証。五綱判とは教・機・時・国・教法流布の前後である”
(顕正会折伏理論書・286ページ)
これこそが一般世間に知ってもらうべきことではなかろうか。
特に、”こと宗教に関しては全く無智で、ただ曖昧な常識や好悪の感情だけで判断しているのが実状である”
これはもっともな意見であるのだから伝え弘めなければならないはずなのに・・・
ゆえに、私はこの基礎教学書を”浅井昭衛氏の名利・名聞の為の書”と判断し、顕正会を辞めたのである。
いくら成仏の為の法華経であっても己の名利・名聞のためにやったのでは成仏は出来ないのです。
0コメント